my trivial daily life

観劇備忘録のようなもの

白い嘘と黒い嘘

わたしは嘘が苦手である。こう書くと、いかにも誠実な人でござい、と宣伝しているように聞こえるかもしれないが、けしてそんなことはない。いつでも真実しか言えない、というのは、どうしようもない性癖に過ぎず、円滑な人間関係に置いては災いのタネになりやすい。ある意味劇薬を振りまいて歩くようなものだからだ。だから、嘘が苦手で上手に切り抜けられない自分をいつももてあまし気味なところがある。

たとえば、意見を求められて、それがその人の望む答えではないと分かっていても、その人には受け入れがたいであろうと予測されても、意見を求められた以上、角を立たせない適当な嘘は思いつかず、結果わたしの考えを上手な緩衝剤を挟む余裕すらなく述べてしまう、と言う状況になりやすい。当然ながら、後味が悪い。
また、別に真実が求められているわけでもない状況で、自分にとってはまだ未消化で言いたくないことに触れられたとき(本当は気の置けない友人たちや肉親になら言ってもいいけれど、この人には…と思うような場合とか)、無理に傷口を広げて話し、「なんでこの人にこんなことまで喋らなくてはならないんだろう」と思うような状況がままある(相手だってこんなことまで聞いちゃあいないはずだ)。

適当に誤魔化して返事をすればいいのに、「これは嘘ではないか…」と考えてしまい、言えなくなってしまうことや、適当に返事をした後で「嘘をついてしまった…」と自己を苛むことや、言ってしまって「もっとうまい切り抜け方はできなかったものか」と悔やむ。劇薬は相手にも己にも降りかかるものだ。
嘘が苦手というのは、このように厄介で後味の悪いものなのだ。


そんなことを常々考えていたのだが、奇しくもid:yukodokidokiさんとid:bunqさんの日記を読んでいて、嘘の話が対照的に書かれていた。どちらも母親が子供についた嘘。でも、この二つの嘘は全く様相が異なる。


子供達が本当に幼い頃、「なんでそんなこと知ってるの?」と子供に聞かれるといつも 「お母さんは実は魔法使いなのよ。だからなんでも魔法でわかるの。」と答えていた。 例えば子供の友達のお母さんや幼稚園の先生から電話で聞いたからだったり、幼い子供がつくバレバレな嘘を見破ったり、その程度のレベルのことでも、子供には不思議で、だから「お母さんは魔法使い」ってことは子供たちにはすんなりと受け入れられたのだった。 しかし、娘が小学校に上がってしばらくした頃、学校から泣きながら帰って来て、「友達に嘘つきって言われたの」 「どうして?」 「うちのお母さんは実は魔女なんだよって言っただけなのに・・・」 心の中でアチャー!と思いつつも、「魔女ってことは秘密なんだからそんなことお友達に言っちゃダメじゃない」 と答えてしまったアタシ。

幼稚園の頃、ある日いきなり先生に呼び止められた。3階にあったクラスルーム(すみれ組)を出て階段を下りた、2階の廊下。緊急時の避難用でもある1階に続く大きなすべり台の前で、先生はしゃがんで私の肩に両手を置き、わけのわかんないことを言った。 「Uちゃんに、なんであなただけは私の誕生パーティーに呼ばないなんて言ったの?」 びっくりした。そんなことを言った覚えはなかったし、第一、当時の私にとって「自分のお誕生会に仲良しのUちゃんが来ない!」だなんてことは考えられなかった。てゆーか、そんな「わざわざ誰かだけを外す&しかもそれを本人に告げる」だなんてことは思い付きもしなかった。だから私は幼児らしく、わんわん泣いて否定した。そんなことを言った覚えなどないということ。そもそもUちゃんを誘わないわけなどないということ。幼児の私にはそれがせいいっぱいだった。でも先生は怖い顔をしたままで、意地悪をしたうえに嘘までついてはいけない、Uちゃんはあなたの言葉に傷ついてたくさん泣いたのよ、と繰り返すばかりだった。 翌日になり、実はすべてUちゃんの母親による嘘だった、ということがわかった。先生がもう一度Uちゃんに「直接そう言われたのかどうか」を確認し、その結果、彼女の母親が「冗談のつもりで自分の娘に適当なことを語ったのだ」ということがわかった。Uちゃんは私に泣いてあやまった。私もつられてもういちど泣いた。そして再びもとの仲よしにもどれた。

お母さんが魔女だというid:yukodokidokiさんの嘘は、誰を傷つけるつもりもない、悪意のない嘘だ。夢のある他愛ない嘘。こういうのは嘘と言うより、わたしは愛を込めて「法螺」と呼んでいる。

たとえば、ガラス玉を話術によって宝石に見せてあげる。いつか大人になれば、ガラス玉と言うことが分かるかもしれない。けれど、それでも、夢を見て楽しかった記憶や子供心に見たキラキラしたものは、見えないものを見つけて信じた気持ちは、かけがえのないものだ。はじめからガラス玉にしか見えないよりも、きっと豊かな何かを得たに違いない。たとえ、魔法が解ける瞬間が悲しかったとしても。
大人になれば殺伐とした現実や世知辛い社会を否応なく見ることがあるのだ。その前にせめて他愛ない夢を与えてあげる、そんな嘘は可愛らしいではないか。こういうのをいつかWebでどなたか*1が真っ赤な嘘ならぬ「白い嘘」と呼んでいたのを思い出す。誰も傷つけることのない、それでいて、ついつい信じたくなるような罪のない、どうしようもない嘘。その方は「真っ白な嘘*2をつきたい」と書いていらした。そういうセンスに恵まれず、そういう鍛錬もなかったわたしは、真っ白な嘘つきの方が羨ましいし、尊敬してもいる。ああ、生まれ変われるものならば、立派な法螺吹きになりたい。


対してid:bunqさんが経験した嘘は、全く異質のものだ。そのことによって誰かを傷つけることが容易に予測される嘘。言った本人はその時気持ちよかったのかもしれないが、その後の影響についてはあまり深く考えてはいないのであろう。Uちゃんを懲らしめるつもりだったのか、id:bunqさんから離したかったのか、その意図は見えないけれど、悪意は見え隠れする。本人は冗談と言うけれど、与えた影響は冗談では済まされない重さがある。これは真っ赤というよりも、さしずめ色に喩えるなら黒が相応しい。
軽い嘘と重い嘘。笑える冗談と笑えない冗談。白い嘘と黒い嘘。泡沫のような法螺と攻撃する嘘。


ここまで書いてきて、嘘が苦手な理由が見えてきた気がする。多分わたしは、嘘に二つあると言うことも承知していながら、後者は論外としても、前者の他愛ない嘘はセンスや鍛錬が必要であり、そういう経験値が全くないのでできず、またそういう嘘が宿命的に持っている「魔法が解けた瞬間」を見るのが怖いのだ。それを己によって直截にもたらすということに対して構えてしまうのだ。
かくして真実という劇薬を常に懐に隠し持ちながら、黒い嘘も白い嘘もつけずに、灰色の現実の中で今日も右往左往しているのであろう。

*1:たしか雑文系の有名なサイトだったと思うのですが、URLその他を失念してしまったので、もしご記憶の方がいたら教えてください。

*2:嘘だと分かった後でも後味が軽妙で、影響の少ない、それでいて味わいのあるものを「真っ白な」と形容され、それを志向していたと記憶している。