my trivial daily life

観劇備忘録のようなもの

山と花と娘と

連休最終日にお出かけ。秩父羊山公園まで芝桜を見に行く。

連休中で日帰りができる距離で、旅行気分を味わいたいとなると、どうもわたしは海より山が落ち着くらしい。田舎育ちだからか、山に囲まれた盆地で川がある、というのが原風景にきっと根付いているのだと思う。緑が濃くなって、空気が柔らかになるたびに、山に分け入り、水が清らかになるのを感じるたびに、自然に、日常生活の中で鎧っていたものが軽くなっていくような気がする。
急行から各駅停車に乗り換え、のんびりと景色を味わう。山の中に薄紫の見事な花が時折目に止まる。自生した藤は藤棚に垂れ下がる藤とは別のもののように逞しい。自分より大きな木に挑みかかり、覆い被さり、我が物にせんと房を垂らす。藤の花には歌舞伎の藤娘のような可憐なイメージがあるけれど、自然の中の藤は清楚な娘というより、老獪な女のようだ。いや、この傍若無人さこそが、少女そのもの、なのかもしれない、などと考えてほくそ笑む。

途中で蛾が飛び入ってきて、周囲の乗客がそれを避けているのだが、なぜかわたしは蛾と一緒にたんぽぽの綿毛がふわりと車中に舞い込んできたのを目で追っている。我が家の藤娘に「たんぽぽの綿毛だよ〜」と伝えてみたが、それどころではないようだ。昔はこういう、ふわふわした母ちゃんの情緒に付き合ってくれたんだけどなぁ。

横瀬駅で降りて、長閑な田舎道を歩く。「あつい、あつい」と連呼し、ダラダラ歩く娘を励まし、途中の商魂逞しい家々の出店を眺める。アイスクリームやジュースより、お手製であろう割り箸に刺した浅漬けの胡瓜や、鮎の塩焼き、山菜の天ぷらがおいしそう。自給自足できそうな静かな田舎も、やはり書入れ時には商売しようとするのだ、と思うと、どこで生きようと、人なんてそう変わるものではないのだと変に感心する。

丘に登ると、広い敷地にびっしりと敷かれた芝桜の絨毯が現れた。西洋の庭園のように流線型に区切られ色分けされている。説明書きによれば、武甲山男神秩父神社の女神との年に一度の逢瀬を絵にしたもの、らしい。見上げると無骨で猛々しい山のシルエット。あれが武甲山かと納得。中腹から上は白く切り出されていて、石灰が採れるのだと案内板にある。
公園の出口あたりには道の駅が出ていて、お祭り広場のように出店が並び、ベンチも人がいっぱい。氷水で冷やした胡瓜に味噌をつけたものをボリボリ食べ、空いている席を見つけ、山菜を乗せた蕎麦を食べる。空気が美味しいと素朴なものこそ美味しい。串に刺した焼きしいたけ、カキ氷、揚げたジャガイモに味噌ダレをかけた「みそポテト」と娘のリクエストは続く。食欲が増すにつれ、元気も回復。次は何を食べようと目を輝かせている。まさに花より団子のご様子。

花を見て、駅へ向かうルートの中で急坂コースを選び、山を下る。急坂というだけあり、つま先下がりの坂で結構怖いが、途中片手に持った味噌ポテトを食し終えた娘は、ポテト落下の危険性がなくなると、私の手を引きどんどん下る。駅へ出て、特急券を購入し、残りの時間を潰すのに散策。秩父神社へ向かってみる。
レトロな煙草屋さん、趣のある洋館風の病院、古いソファが置かれたタクシー乗り場、と古い町並みを楽しむ。閑散とした商店街の途中には「どこいくべぇ」と名づけられた凝った案内板が建てられていて、読んでみると由来が分かり、なかなか楽しい。能書きというのはなくても良いことだが、わたしはあったほうが楽しいタチなのだ。
神社にはそう広くはない境内に、本殿を囲んで、いくつかの小さな宮やご神木がある。色々なところに一度で詣でられる、という合理性はご利益があるのか、それとも日本人古来の感覚なのかしら、などと考えて一つ一つ周る。
中でも秩父宮妃殿下の手植えの木は幹から円錐形の突起がいくつも垂れ下がっていて、乳銀杏と名づけられている。なるほど、秩父神社は女神なのも腑に落ちる。
お目当てだった本殿に施された左甚五郎の彫刻、「つなぎの龍」「子育ての虎」は色鮮やかで迫力があり、意匠に個性を感じる。娘に北辰の梟がデザインされた智慧のお守りを購入。賢くあれ、いろんな意味で。

駅へ戻り、娘のリクエストにより、おやき、みそポテトをまた購入。友達へのお土産購入に軍資金をあげ、仲見世通りを散策。ご当地キティとご当地リラックマのストラップを購入。なんか情緒ないですな。
帰りの電車で、ラムネと焼きおにぎり3個をぱくつきながら「わたし、前世は餓死したんじゃないかと思う」と彼女は呟く。いや、餓鬼がついてるんじゃないでしょうか。母ちゃんは見てるだけで腹いっぱい。
でも、ご飯が美味しいのも幸福な旅の記憶だよね。
「楽しかった! 次はイチゴ狩りに行きたい!」ですと。
ほいほい。