my trivial daily life

観劇備忘録のようなもの

優しい時間

開始数回から見忘れていたりして、なかなかリズムについていけなかったのだけれど、ここのところ見ている。今日は何故か意味もなく涙が落ちてしまった。
二宮くんの演技は繊細で、痛さが伝わってきて、仕事に疲れた頭でぼーっとテレビを見ていてもらい泣きしてしまったというか。
人は弱いから愛おしいのだ、その弱さこそが魅力なのではないか、と何度か思った。本人は醜いと恥じている部分こそ、実は他人には愛おしく思えることはないだろうか。勿論どんな人の弱さでも弱さならば受け入れられる、というわけではない。でも、弱さが愛おしいと思える相手は、間違いなく好みの相手だと思う。そんなことを考えていた。

しかし、そもそも、何故このドラマに入りきれなかったかというと、寺尾聡の演じる不器用なマスターに親として感情移入できなかった、というのが大きい。もう十分すぎるほど自分を責めている我が子をどうして抱きしめてあげられないのか、とその事がずっともやもやしていたのだと思う。そのことを見ないようにして、ただ静かに亡くした妻と毎晩ゆったり想い出を語っている、そこにまず違和感があったのだ。そんな場合ではないのではないか、と。わたしが死んだ妻なら、そんな都合のいい優しい思い出話なんかに付き合わず、化けてでも、夢の中ででも、お尻ひっぱたいて息子と直面させるだろう…とか。
そんなわけだから皆空窯の主人の「あんた、変な親だね」という言葉には胸がすく思いがした。

でも、考えてみると「北の国から」然り、倉本聡の描く男親は、みんな直接相手の傷に触れない、というデリカシーを持っているんだよね。それが優しさとか上品さに繋がるのかもしれないけれど、それも程度問題なわけで。もっと早くに正面切ってぶつかっていれば子供の傷の深さも、見えてくる物の大きさも違ったんじゃないの?と思ったり。
自分の時間を大事にするのは素敵なことだし、いつか自分で気づくだろうと見守るのも大事だけれど、なんだかただ目を逸らしているようにしか見えなかったり。それがなんだか歯痒かったり。息子はどんどん成長していくのに、大人はこれでいいのかなぁと思ったり。

あと、倉本聡作品は女性が底知れぬほど怖かったり、救いがないほど寂しかったりするのも、男性には珍しい観察眼を持っていてすごいなぁとは思う。思うけど、なんだろな。寂しい女と怖い女と強い女、ばっかりメインで出てくるのも、男性像一般が情けなくてオッケーになっている中で、バランス悪いなあと思う。
美しくて救いがないより、そこそこで笑いがある方が見てて楽かもしれない。