my trivial daily life

観劇備忘録のようなもの

生きて行く私


あれは中学生の頃だったのだろうか。テレビで十朱幸代が主演していた同名のドラマを見て、衝撃を受けた。当時のわたしに詳細までは理解出来ずとも、毎朝熱湯の湯気で顔を蒸かし、初荷の馬と周囲から揶揄されてもバッチリと化粧して小学校に出勤する、というシーンが妙に鮮やかに記憶に残っていて、この本のタイトルはしっかりインプットされていた。
中学時代のわたしは妙にませた子であったせいか、人から見たら我が儘であるとか、強烈であるとかいった女性の言動に何故か心を奪われることが多く、NHKで片平なぎさが演じた淡谷のり子の自伝ドラマとか、永井路子の女性をテーマにした歴史小説などに妙に興奮したのを憶えている。同級生が読むようなコバルト文庫などは一度読んで「面白くない」と切り捨て、静御前ってかっこいいなぁなどと思っていたのだから、相当変わっていたのかもしれない。
そんなわけでこの本もいつか読もうと思っていてなかなか手に取る機会が無く今日に至ったが、やっと読了した。

読み終えて思うことは、たしかに波瀾万丈な人生だが、それがどうだとか人の生き方に読んだ他人が文句を言う筋合いは全くない、と言うことだ。宇野千代という人が世間で言われているイメージほど奇天烈な人ではないような気もしたのだ。ただ、こういう文字を連ねる女性の常として妙に好奇心が旺盛である、ということは特徴として言えるかもしれない。そしてその好奇心にいつもただただ忠実な生き方をした、ということなのだろう。
美しく咲いた桜の下には、沢山の踏みつけにされた人の涙があるのじゃないかというような感想を目にしたこともあるが、それを批判できるのは実際に踏みつけられて痛い思いをした人が言うべきことであり、ただ読んだ他人が言うことではない気がする。そしてこういう生き方をしたことで何より本人自身がつらい思いなら常人の数倍味わっているはずなのではないか、とも思う。宇野千代という人はその辺を女々しく語ったり言い訳をしないので、その分あっけらかんとしているのだ。けれども泣きながら書いたその文章が、妙に乾いていると言うこともあるのだろう、と、何となく思った。その文は煩悶や自己弁護がない分、時に非常に無神経に見えたり、突拍子もなく見えるのだろう。ただ、どんな時にも彼女は自分で決め、自分で行動し、その責を自分一人で負ってきたのだから、いいではないか、とわたしには思えるのだ。自分で決めることができず、誰かに頼って生き、結果が良くても感謝せず、悪ければ誰かのせいにしたり、己が身を振り返らずに不平や恨み辛みを言って生きるよりか、よほど心地よいと思う。己が心の命ずるままに生きてみたなら、どれほどしんどいであろう、と思うのだが、それをやってみるバイタリティがあればこその宇野千代なのだろう。普通は困難なことは避けて生きるし、メリットとデメリットを秤にかけてしまうものだ。リスクを冒して生きた人の華やかな美しさを、安全な場所で生きた人間が批判できるはずもない。


それはそうと、文中、川端康成とか青山二郎とか谷崎潤一郎とか、それはそれは羨ましいほどに豪華なメンバーが普通に出てくるのがものすごいし、彼らがどんな人柄だったのか、ということも分かるのがゴシップ的な楽しみがあって、本筋とは離れるが非常に面白かった。特に川端康成が美しい踊り子が川遊びをしているときによろけたのをすかさず抱き留めた話など、思わずその時彼にインスパイアしたものを想像するようななんとも贅沢な愉しみがあった。

また化粧の話などで、昔はパフの代わりに兎の足を使っていた(!)などと書かれていて、化粧するという行為と、死んだ動物の足という対比に目がくらむ思いをした。文中には美容やファッションの話や、雑誌作りの話、着物の話、旅の話、料理の話などが書かれていて、日常の実に細やかな幸せを宇野千代という人が如何に大事にしていたかが分かる。
喩えどんな時代でも、日々を大切に生きたらきっと幸せ、と思ったし、こういう細やかな喜びを大事に出来る女性はやっぱり嫌えないと思った。

(でも非常に残念ながら、色んな男の人にいつも恋心を抱けるバイタリティだけは、すげえよ!と思ったし、正直、あやかりたい、と切に切に思った…。これからは宇野大明神を拝むべきかもしれない。)