my trivial daily life

観劇備忘録のようなもの

能筆のひと

昨日不在者通知が入っていた荷物を受け取る。新潮文庫のYonda?クラブキャンペーンのプレゼント欲しさにせっせと見返しを切っている娘には沢山の見返しの角。わたしにはコンサートに行って来てわざわざサインをもらってきてくれたという岸部眞明のCDや、約束していた本など。相変わらず箱の大きさに過不足無く、不格好な隙間や出っ張りがないように詰め込まれている。そのパッキングが人となりを物語っていて可笑しい。水色の便箋にわたし宛と娘宛の手紙。珍しく筆圧が強めなのは、書くことに悩んだせいだろうか?

岸部さんのサインの文字が美しくて感動する。頼んでわたしの名前を入れてくれてある。ギタリストというのは字が上手いイメージではないのだけれど、書き慣れたサラサラとした手で素直で上品な文字。偏見かもしれないけれど、「字は人なり」と何処かで思っているので、岸部さんの文字を見て更にわたしの中で好感度が上がる。もちろん文字の美しさ単体で人を好きになったり嫌いになったりという大きな要素ではないのだけれど、たとえば感じがいいなと思っている人で、その人が悪筆だったらやっぱりガッカリするものだし、綺麗な文字だと惚れ直したりするのだ。なので個人的には絶対字は綺麗な方がいい、と思っている。いや、綺麗じゃなくても、粗雑だったり妙な癖がついていたりというような要素がない、好感を持つ字だったらいい、ということかもしれない。

そういえば、昔母に「どうしてお父さんと結婚したの?」と聞いたら「目がいいから(母は幼い頃白内障に罹ったので目が悪いし、そのことが子供に影響しないかと心配していた)。それにね、字が綺麗だったから。」と言っていた。父の家族は習字やらペン習字の先生やらがいるので、家系的にそのへんのこともあるのかもしれない。ということで、変わっているのかもしれないが、そういうことにポイントを持ってくる人もいるのだな。となると、これは親譲りなのか。
取り立てて文字にコンプレックスは持っていないわたしだが、そういえば幼い頃も字は良く褒められた。就職する際にも、友人が「履歴書選考だと絶対あなたは得だよね」と言ってくれた。パソコンが流通し、文字を書く機会が減って、字は汚くなっていく一方だけれど、それでもペンを持つ機会は増やさなくてはいけないなあ、などと思う。どんなに美しいフォントよりも、肉筆の文字の美しさはより能弁に何かを語る。

そして、おそらくは彼の文字よりも、言葉よりも、巧みな、でもけして押し出しの強くない、そんなギターの音色に包まれて午後を過ごす。