my trivial daily life

観劇備忘録のようなもの

繋ぐ手

雨の日も晴れの日もあるように、夜も朝もあるように。わたしはただ淡々と自分のログを取ろうと思ってこの日記を書いている。だから、嬉しい日は嬉しいことを書き記し、沈んでいる日もそのままに偽らないまま書こうと思うのだ。ただ、自分のために。
そこにはもう読んでいる人がどう思うかとか、そういう気持ちはなくて、ただ、その日、そんな気分のわたしがいた、というだけのことであって。嫌なことがある日にも明るく努める、なんていうことをしていたら、わたしはここではわたしではない何かを演じなくてはならなくなる。そういうことだけは、自分で自分の居場所をなくすことはしたくないから、敢えて落ち込む自分を書くと言うことで発散し、落ち着かせているのかもしれない。


ただ、幸福なのは、ここ数年でわたしは、ただ聞いて欲しいとき、一緒に考えて欲しいとき、自分にとって必要だと思える人にS.O.Sを出せるようになった、ということだろう。そして、それに応えてくれる人が、必ずあるということ。だから、このページを読むであろう誰かに気づいて欲しいとか、声を掛けてくれるように、などという切ないメッセージを暗に送るような含意は、たぶん、全くないのだ。
欲しいときに欲しいと言う。たったそれだけのシンプルなこと。それができるようになった自分を強くなったと思う。今一番必要とするものを、自分で考えて求めることができる。差しだした手が温かく誰かの手に触れる瞬間。そしてその手は、わたしが望む限り、この手を繋いでいてくれるだろうと知っている。

そうやって、わたしの手は誰かを求め、またもう一方の手は誰かに求められる。繋いだ手のその先は、やはり誰かに求められ、そうやって、大きな見えない輪ができているのではないだろうか。
女性同士だとよく、「わたしもうち明けたのだから、あなたも」とか、同じ形での心の繋がりを求めることがあるけれど、人の関係はけして対価でも等価でもないし、同じ形で返す必要もないのだと思う。求め、求められる関係が双方に同じ頻度や重さで成り立っている状況は実は希有なことなのではないかと思うのだ。それでも、その難しさを考えずに望む人は多い、気がする。

甘えても、甘えられても、それが等しくない気がしていても、案ずることはない。その手は、満たされれば必ず、誰かに繋がっていくのだから。そして直截にではなくても、きっと与えてくれた人を満たしていくはずだから。愛情は広がり循環するものなのだから。