my trivial daily life

観劇備忘録のようなもの

白州正子自伝


白洲正子自伝 (新潮文庫)

白洲正子自伝 (新潮文庫)


いったい、白州正子という人は、いかにしてかの「白州正子」になったのか──。初太刀の一撃に命を賭ける示現流薩摩隼人の度胸を、魂深く受け継いだ人。危うきに遊んだ名人たちとの真剣勝負を通じて、生はもちろん死の豊饒をも存分に感得した人。ものの意匠に何らとらわれることなく、本来の裸形をしかと見すえ続けてきた人。その人が、その人自身の来し方に目をむける時……。

(カバーより転載)

白州正子という人について殆ど予備知識もないままに読んだ。東京の永田町に生まれ、黒田清輝の絵が飾ってある食卓で食事をし、叔父は海軍軍人樺山資紀伯爵、という生い立ちにまず面食らうが、読んでいて、この人はけして良家の子女然とした女性ではなく、とんだ跳ねっ返りだったのだ、と舌を巻いた。とにかくこの時代の女性は逞しい。そして物書きの常として、異様と言えるほどの好奇心を持っている。こんな風に生きたら、そりゃ面白いかも知れないけれど、身が持たない、とわたしのような凡人は思ってしまう。
自伝とは称しながら、白州正子の筆は思いつくまま趣味や観劇の感想や、旅の想い出など自在に語るので、その生い立ちやらルーツやらも端々に出てくるけれど、白州正子のなんたるか、その一端さえ掴めないような読後感だった。自伝なるものを読んだのに全く人となりすら煙に巻かれて分からなくなったような、そんな不思議な感覚であった。何しろ、彼女は自分の過去に全く興味や愛着らしきものを持っていないと明言しているのだから、自然語る口も散漫になるのだろう。後ろを省みず、「韋駄天お正」と呼ばれた彼女は、苦しいことも悲しいことも楽しかったことも実にサバサバと乾いた口調で語っている。なんと、筋金入りのお転婆というのはかっこいいのだろう。「運が良かったから切り抜けてきただけ」「その日その日を暮らしてきただけ」と彼女は語るのだけれど、それは日々を懸命に生きたことの証でもあり、その心境に簡単に人は行き着けるものではないとも思う。ああ、どのくらい行ったら、その境地に辿り着くことができるのだろうか、と足掻く我が身を振り返っては思う。そして、千回生まれ変わってもわたしは彼女になれはすまい、とも思う。

あとがきにこんな風に記している。

もっとも人間同士は誤解によって繋がっているのは普通のことだから、この上正解されてはたまったものではないとも思うのである。だいたい自分自身のことがそれほど解っているものだろうか。それならいっそのこと世間の人々の判断に任せておいた方がいい。都合がいいからではなくて、それ以外に方法がないからだ。

蓋し名言。「本当の私」だとか「アイデンティティ」なんてものは、求めて翻弄されるものでもないものなんだろう。そんなものはいっそ他人にどーんとお任せしてしまえ!なんて考えてみると、とても痛快な気分になる。