my trivial daily life

観劇備忘録のようなもの

夏草の記憶/トマス・H・クック

夏草の記憶 (文春文庫)

夏草の記憶 (文春文庫)

名医として町の尊敬を集めるベンだが、今まで暗い記憶を胸に秘めてきた。それは30年前に起こったある痛ましい事件に関することだ。犠牲者となった美しい少女ケリーをもっとも身近に見てきたベンが、ほろ苦い初恋の回想と共にたどりついた事件の真相は、誰もが予想しえないものだった!

(Bookデータベースより)

遠い夏、振り返れば遙か彼方に置いてきたもの。懐かしい人、懐かしい記憶、懐かしい想い、そして青臭かった我が身への悔恨や逡巡。流した涙や愚かさや、戻らない情熱や、いくつもの想いを経て人は大人になる。多くは、あの頃は若かったなどと苦笑いを浮かべながら。
それでも、けして甘酸っぱいなどという言葉では拭えない過去もある。それがただ、未熟さ故のよくある過ちであったとしても。ありふれた初恋という物語の中であったとしても。直接的な行為ではなくたった一言の囁きだったとしても。

過去と現在が絡み合う手法、一人の少女を襲った過去の悲劇という題材、美しく聡明で意志の強さを感じさせる女性、とクック愛読者にはよく馴染んだ、クックお得意の演目が揃った物語だろう。非常にクック的だと思う。『緋色の記憶』や『心の砕ける音』などに見られる情熱や思慕やそれらが潰えていく切なさ、独特の美しさ、複雑さ。手法的には目新しい部分はないのかもしれない。それでも、また読みたい、そう思ってしまうのは、とりわけこの物語が、誰もが思い出として持っている学生生活や、初恋や、郷土の時間、という読む者の思い出に共振するテーマだからかもしれない。若くナイーブで情熱的で稚拙だった時代だからこその切なさなのだろうか。徹底的に一人の人間の心を深く深く掘り下げていくこのやり口こそ、誰にでも伝わる普遍的なテーマになりうるのだと思うが、この作品はクックの持つ繊細さが最も現れていたように思う。

それにしても、クックは何故こうも、繰り返し繰り返し死んだ美しい少女というテーマを描き続けるのだろうか。まるで何かにとらわれたかのように。

わたしは、求めることを忘れたもの。
過ぎ行く歳月にかまわず、
ことばは木霊となり、友は去っても、
名もなき目的地に至る名もなき道として、あとに残るもの。
ときに心安き仮庵となり、
今日から明日を紡ぎ出す場所。
わたしは、斃れた者たちの記念碑。

本書 第一部 8より抜粋


人はどうやって大人になるのだろう?
若き日、挫かれた心はどうやって明日を見つめるのだろう?
もし、過去の愚かさから永遠に解放されないとしたら、解放されることを自分に許さないのだとしたら、心の一部はあの日のまま壊死して、歪んだ形のまま成長していくことになるのだろうか。
否、人は多かれ少なかれ、そのようなものなのかもしれない。人は誰もが様々な傷を負う。克服できた傷もあろうし、そのことによって歪められることもあるものだ。生きていくうちに負う全ての傷を全て正しく克服したとは限らないのだから。そんな数々の傷こそが今の「その人らしさ」を形作っているのかもしれない。
そしてクック自身もまた、そんな傷を負うた人なのかもしれない。


クックを読むたびに思う言葉がある。
「どうして楽しいことや明るいことよりも、悲しい方に目が行ってしまうのかしらね?」と呟いたわたしに、ある人が返した言葉。
「綺麗だからだよ」