my trivial daily life

観劇備忘録のようなもの

ぼんくら

ぼんくら(上) (講談社文庫)

ぼんくら(上) (講談社文庫)

ぼんくら(下) (講談社文庫)

ぼんくら(下) (講談社文庫)

宮部みゆきの時代物は始めて読んだのだが、期待以上に良かった。最初は同心の平四郎を中心に鉄瓶長屋の悲喜こもごもを短篇仕立てで描く人情ものかと思わせておいて、後半はそれらの短篇が複線となり、絡み合う見事なミステリーになっている。うーん、面白かったとしか言う必要がないかな、と思うくらい。しかしそれでは1行で終わってしまうので、なんとかひねくりだしてみることにしよう。

まず登場人物たちが実に生き生きとしている。お徳やおくめ、佐吉などの長屋の面々がいい味を出しているし、時代物によくありそうな、お節介だったり働きものだったり、孝行ものだったり、博打好きだったりとかいう普通の人々を丁寧に描いておきながら、弓之助やおでこなどのそんじょそこらにいないような登場人物も実に上手く配してある。小説らしい、特異なキャラクターというのはともすれば血の通わない、シンパシーを抱けないお人形になってしまうのだが、たとえば弓之助のような、人形のような美少年で計測が大好きで、推理もなかなか鋭いという子に「おねしょをする」などという非常にお子様らしくて可愛らしい欠点を添えてしまうあたりがさすが!と思うのだ。この一点で弓之助がどんなに美しかろうとも、聡明であろうとも、まだお子様なんだという親しみやすさをぐっと倍増させている。お徳のような「長屋の良心」とでも言うべき女に対しても、彼女の個性がいい面も悪い面も出る場面があり、なるほど、このへんが小説としての彫りの深さだなぁと唸らせられた。
最終章の「幽霊」では宮部みゆきの『火車』にも通じるような底冷えするほど怖い女も出てくる。いい人を描かせても市井の人々を描かせても上手いが、この人の描く悪女はこれまた格別に怖い。女が見たら怖い女、だと思う。それは女としての嗅覚なのか、滅多にはいないだろうけれども確実に「いそう」で、怖いのである。
それぞれの人物をただ一面から見ることなく、特徴的な部分のいい面と悪い面を描き陰影をつける、これは案外できそうでできないことじゃないかと思うのだ。宮部みゆきの観察眼と人物造詣の深さに脱帽する。


もちろん、純然たるミステリーとして見るときも、プロットも面白い。いや、これらの豊かなキャラクターに彩られているからこそ、事件も、その真相も、プロット自体も生き生きとしてくるのだろう。
最後のオチの付け方としてはミステリー読みにはいささか承服しかねる点があるかもしれないが、個人的には「アリ」だと思った。
こう思うのは、平四郎のような男が嫌いではないからだ。寧ろ好ましい。全てを明るみに出したとして、それで誰が幸福になるか?を思い、誰も傷つくだけで何も良いことはないと思う真実なら、敢えてつつく必要もない、と考えるその志向性が非常によく分かるからだし、肩を持ちたいからだ。真実を明らかにするのは気持ちよいことなのかも知れない。でも、真実など何も益をなさないことはよくあるものだ。一瞬のカタルシスの後に残る後味の悪さを取るくらいなら、模糊とした現実を取る方がいいのではないかと。

きっとわたしが男だったなら、そして望まずして同心になったのだとしたら、鼻毛を抜きながら「面倒くせぇなぁ」と言っているのかもしれない。いや、寧ろ言いたい(?!)。