my trivial daily life

観劇備忘録のようなもの

村上春樹をめぐる暴言

id:hoven:20040916#murakami

自分はひょっとしたら少数派かもしれない、常日頃そういう疎外感を抱いているわたしの先日のぼやき(id:lluvia:20040912#p2)に反応いただいた。せっかくの機会なので「何故わたしは村上春樹がダメなのか?」ということについて考えてみようと思う。

ノルウェーの森』とかは確かにきつかったし、ダメな人もいるだろう。しかし、初期三部作、特に『風の歌を聴け』や『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』は素晴らしいと思うんだけどなあ。

ノルウェー』から入った人は拒否感が強いかもしれませんが。もし、『風』と『世界の終わり』を読んでも合わなかったらダメでしょうけど。

『世界の終わりと〜』も読んでますよ。だから、どれがダメというのではないのだと思います。もう、村上春樹的な男が駄目なのです。ええ。ごめんなさい。すいません。痒いんです。「そんな日本語ありえねえよ!」という直喩を吐く男性主人公と「こんなんいねえよ!」とツッコミたくなるヒロインという分かりやすい『ノルウェイの森』的な世界だけではなくて、彼独特の比喩や形容以前に、その美しい修飾を剥いだ、骨格として持っているもの、が、嫌なのだと思う(これは江國香織作品にも辻仁成作品にも共通するのだけれど)。

巧みな文章力と麻痺するような表現力はあって、最後まで読むことは可能なのです。だけれども、その麻痺にも似た快感の奥には、さんざん自己批判を繰り返して、それでも最後の最後まで自分を欺き続けているような、己を責める振りをしながら最後には自分を許しているような、許している自分にも酔っているような、そんな自己韜晦が感じられるから、なのだと思う。

責めるならとことん責めて結論を出しなさいよ、じゃなかったら、最初から己を受け入れて開き直っておきなさいよ、とか言ってしまいたくなる。そもそも、そうやって責めてきたのは、ひょっとしてただのナルシズムめいた言い訳だったの?と。ともすれば、表現が美しければ美しいだけ、その種の「逃げ」をナルシスティックな痛みで糊塗しているだけに思えてしまう。そして、わたしは読みながら、一層「騙されないぞ」とか思ってしまうんですね。


id:hovenさん経由でid:URARIA:20040914#p1

 この人の小説は「自分探し」というか「自己救済」がメインテーマのようなのだが、自分が救済されるためには何か大きな犠牲が必要で、それは己自身じゃなくまず身近なオンナが背負うようなのである。おまえの業を、正面から語れよ。といつも思うのだが、「僕」は「僕の知っている女の人」の不運話や葛藤や悲劇を語るというのも……なんとも不自然であからさまな代理行動をとらされているようで登場人物(女)たちが痛ましい。


 世界そのものが閉じているというか、身勝手というか、なんともいえない違和感があるのである。なんか、そもそもすべてはあなたの妄想と言い訳なのでは?というカンジの……。自分の罪を素直に見つめるということができないのだろうか。

id:URARIAさんが書いているように、主人公はいつも己の業からは逃げ続けていて、いつも女性が代理行動を取らされている感じも、結局は女性に甘えている男という感じがして厭なのだと思う。わたしも、なんだか彼の小説に出てくる女性はどれも人身御供のように見えてしまう。
わたしは読んでいていつも、「僕」は、女に惚れ抜いたことがあるんだろうか?と思う。どんなに美しい表現でも、ちっとも愛されている感じもしないし、胸を打たないし、心が通じ合う感じもしない。

女性でハルキを大スキな人は一体ナニをどうやって読んで救済されているんだ?

痛くなければ本当の恋じゃない、と思っている女性とか多そうですけれど。あと「この人にはわたしがいなくちゃ!」と思う母性溢れる女性とか。もうズルズルと駄目になってしまうのがたまらない、とか。
たとえて言えば、いつも肉離れしてしまう箇所があって、その古傷がいつまでも痛むことに安心する、とかですかね…。
あるいは、もっと単純に「わたしのこと、どのくらい好き?」と聞いて遠い知らない異国の汽笛なんかに譬えて、物語始めちゃうとか、そういう語り口の甘さに、ですか。でも、それって彼の脳内世界の置換可能な女として愛されてる感じで、ありのままの自分を受け入れてもらっている感じゼロですよね。

どっちみち結局は都合の良い身代わりになるので、酔わされこそすれ、救済はされないのだと思うのですが…。
そもそも、自分を救済できるのは自分だけなのですから。男も女も。