my trivial daily life

観劇備忘録のようなもの

色のない血

【泣きたい場所】   月のシズク 
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ここを読んでから、ずっと考えていた。わたしの泣きたい場所は何処だろう、と。
昔はわたしも彼女のように一人で泣いた。おかしなことに、泣いている自分の顔を鏡に映して、ああ、わたしは泣いているんだと客観的に確認したりした。それで冷静な自分を意識しつつ、涙を流した。そんな位だから、泣くのは下手だった。思い切り泣くなんて、できなった。

そのうち、涙は出なくなり、胸の中で痼りになった。生きているのか、死んでいるのか、本当に嬉しいのか、悲しいのかさえ、曖昧になりかけていた。おそらくは涙の痼りが心を鈍らせていたんだろう。
「泣いていいんだよ」と優しく抱きしめてくれる人もいた。「本当は泣き虫だよね」と背中を撫でてくれた恋人もいた。それでも不思議なくらい涙は出なかった。泣きたいのに、泣けなかった。まるで涙を作る器官が錆び付いてしまったかのように。

涙の痼りは固い固い結晶になり、溶けることはないかもしれないと思い続けて、もうそれすらも忘れた頃だった。
ある夜、友人との電話の途中、滴が、つーっと頬を滑ったのだ。
本当に思いも掛けずに。

きっかけとか、会話の内容とか、そういう特別なものがあったわけでもなかった。たぶんそういうものがあったら、逆に泣けなかったと思う。その時が臨界点だったのだろう。結晶はずいぶん前から静かに静かに溶け出していて、もう泣く準備は出来ていたのだと思う。
頬を伝う滴は次の滴を呼んでいく。一瞬焦ったわたしは電話口の気配を確かめた。

けれども、その人は泣いているわたしに気づいても、何も変わらなかった。いや、変えなかったのだと思う。動揺したり、慰めたりすることもなく、ただ変わらず静かに電話口の向こうにいてくれた。そのことが救いだった。これで泣ける、何故だかわたしはそう思ったのだ。

途端に錆び付いた器官が一気に緩んだ。声を詰まらせながら、「ごめんね」と言っては泣いて、しゃくり上げて泣いて、一呼吸しては泣いた。もう泣いている自分なんて確認することもなくなっている自分に何処かで安堵しながら。
その人はそれでもただ黙ってわたしの話を聞き、ただ優しく頷き続けてくれたのだと思う。時折その存在を示すために控えめな相槌を打つだけだった。泣いていいんだよ、沢山泣いてごらん、そう無言で言われている気がした。
そんな場所があった。あれは確かに泣くための場所だった、と思う。

それから、わたしは泣けるようになった。何故か堪える必要も感じなくなったのだ。あれ以来、あんな大泣きはしていないけれども。じわりと滲んだり、ポロリと零れたり、しくしくと泣いてみたり、零れはしないけれど、潤んだり。そんなことが普通になった。だから娘は「ママは泣き虫だ」と笑う。
たった一度の氷解が、その場所以外でも泣くことを容易くしてくれたように思う。もう大丈夫、もう泣ける、と心が教えてくれた。一人でも、家族の前でも、信頼する人の前でも。

だから泣きに行く場所は、儀式は、もう取り立てて必要ないのかもしれない。
泣きたい時、泣きたい場所で、聞いて欲しい人の側にいられれば。