my trivial daily life

観劇備忘録のようなもの

きのうの空

きのうの空 (新潮文庫)
『きのうの空』 志水辰夫著 新潮文庫 ISBN:4101345163


遠い遠い夏。草いきれ、半ズボン、キラキラと輝いていた海、ジリジリと肩を灼く太陽、胸の高鳴り。そして見えなくて、怖かった未来。言えなかった言葉。好きだった人。なくしてしまった係累。未熟な自分への後悔。罪の意識。取り戻せない時間。甘い痛み。
読みながら何度もわたしは少年になる。少年になったわたしは、昨日見た空の色を風の手触りを思い出す。指の間をすり抜けていく砂のような思い出。これはまるで墓標のようだ、と思う。遠い日の自分に贈る餞のようだ、と。郷土も違う、生きてきた道も違う過去なのに、それぞれが切なくて苦い青さと知っていくことの悲しさと甘さを持っている。なんて豊かな痛みなのだろう。良い意味で『暗夜』を描いた作家とは思えない、文学的で叙情的な短編集。

あとがきが、また、しみじみと胸に迫ってくる。

捨てることも忘れることもできず、執念深く、いつまでも根に持っていることを、自分の拠って立つ足場とするしかなかったのである。だからこそ、いつかはそういう自分の精算をしなければならないときがやってくるだろうと覚悟していた。この先どういう方向へ向かうにせよ、これまでの自分に決着をつけなければ前に進めないように思ったのだ。

志水辰夫は、「小説などおそらく読まないであろう同世代の人々に捧げる」と書いているが、戦後を全く意識していないわたしたちのような世代でも、十分に切なく、そして面白かった。彼らのように痛烈な喪失感や価値観の崩壊を味わっていないとしても、ここにある数々の墓標を彼の言葉で見ることが出来る。時代背景は違っても、郷土は違っても、若き日の傷は、捨てることも忘れることも叶わない、という意味においては、誰もが等しく平等なのだから。緑の色や風の音が違っていても、空が一続きであるように。けれども遠い日に見た空の色は、もうここにはないように。

おそらく十年早く読んでいたなら、わたしはこんなにも沢山の鮮やかな匂いを感じとれはしなかっただろう。なくしたものを心の片隅に置いてあるからこそ、生きても行けるのだろう。十年後で読んだなら、眩しいだろうか? それとも微笑んでしまうのだろうか。それとも精算も出来ぬ儘に、同じ痛みを味わうのだろうか。


あなたのきのうの空の有り処はどこですか?