my trivial daily life

観劇備忘録のようなもの

胸に刻む

ずっと学童クラブの職員さんにも相談していたのだが、ある上級生の男の子の乱暴が気になっていた。何もしていないのに殴られた、蹴られた、という娘の訴えが目立つようになり、他の親御さんから「男の子たちにいじめられている」との言葉も聞いていた。ただ娘自体にも悪いところはあるのかも知れないし、どの程度なのかはわからないし、客観的な判断ができる職員さんから何か聞くまでは、と、二の足を踏んでいた。一方的に被害だけを訴えるような親にはなりたくない、というわたしの意識も大きかったのだと思う。
しかし、このままでは忍びないし、痛いなら痛いと伝えねば分かってはもらえないだろう、と思う。思い立って相手方の親を知る人に相談し、一念発起して相手のお宅に電話することにした。話してみると、相手の親御さんも知っていたことだったらしく、まして上級生が、無抵抗な下級生の女の子を殴るというのは良くないということは十分に分かってくれているようだった。単に謝るのでもなく、こちらの気持ちをちゃんと聴こうという姿勢が感じられたので、おうちでもよく話してみて欲しいとお願いして電話を切る。
2時間後、就寝前の娘に電話がかかってくる。男の子からだった。「ごめんなさい。もう殴ったりしない」と娘に直接謝ってくれた。「仲良くしようね」って言ってごらん、と促すと、娘はそのまま「仲良くしようね」と言い、「ママ、うんって言ってくれた」と嬉しそうにこちらを向いて囁く。その笑顔を見て、ああ、もっと早くに動けば良かった、そう反省した。
きっと電話してからの間、ちゃんと親御さんはその子に話を聞き、納得させて、自分の声で謝らせたのだろうと思う。誠実な対応だと思った。子供は善悪の境が曖昧で、分かってはいたとしてもちゃんと叱られねば、ズルズルとたいした悪意のない儘、悪いことをしてしまう生き物なのだ。耐えることは、ひょっとしたら相手の方にも悪影響を及ぼしていたのかも知れない。ちゃんとぶつかって、ちゃんと手応えを感じられる、そういう相手もあるのだ、と。

もめ事を避けようと我慢するというのは、けして美徳ではないのだ。分かってくれるだろう、とか、知っているはずだと思うことも、他者への大きな甘えに他ならない。そして厄介事を厭うわたしの臆病のせいでもある。言わねば伝わらない。言わずとも伝わる人は僅かだ。それをすべからく望むのは間違っている。そう、胸の痛みと共に刻んだ。