my trivial daily life

観劇備忘録のようなもの

言葉は人間を変える

中村うさぎ】言葉は人間を変える だから言葉は「神」なのだ

自分の想いを言語化して文字に書けば、その文字をまた自分の目が読んで、今度は外部情報として脳に送り込む。つまり、「言語化」とは、言葉によって一度思考を外に出し、再び内面化することなのだ。その「一度、外に出す」という作業が、「客観性」を養う、と。なるほど、そういうシステムか。
言葉には、力がある。古(いにしえ)の人々は、その「言葉の力」を「言霊」と呼んだ。そう、生田氏が語ったのは、その「言霊」の科学的なメカニズムなのである。

「ペン先で考える」という言葉がある。文字を連ねることによって、もつれた糸のような思考を解きほぐし、流れを作り、筋道立てて論理を構築する作業。それは、脳で行っていると言うよりも、寧ろペン先が自らの意志で考えているようだ、と感覚として思うときがある。ペン先がまるで彫刻刀のように、曖昧模糊とした心という木材から、その奥に眠る姿を掘り出していくような気がするのだ。だから、この言葉を聞いたとき、わたしはなるほど言い得て妙だと思ったものだ。
「言霊」という神秘的な言葉も、こういった科学的なメカニズムで説明されれば、容易に納得がいく。いや、たとえ科学的に説明など不可能でも、わたしは言霊はあると思っている。それは論理や思考だけではなくて、胸の内に堪えていた感情を、言葉にしてしまったときに、より強く感じる。これまで意識下にあったものが、音として文字として発せられて外へ向かう、そのことにより意味を感じる、とでも言ったらよいだろうか。内なるものを言葉として発することによって、あるいは誰かに伝えようとすることによって、内なるものは意志に変わり、明確な力を持つようになる。発せられた言葉はただコミュニケーションをとるための記号ではなくて、発した人の魂が乗せられていると思うのだ。
そして発せられた言葉はただ相手に向かったり、中空をさまようのではなくて、この文章のように、再び己へ戻るのだろう。客観性を帯びた言葉をもう一度内に取り込むとき、それは発する以前とは違う、より力を伴った感情になっている。それを繰り返し、繰り返して、その不確実なものは次第に像を結んでいく。ならば、書かねば、言葉にせねば、緻密な像など描けはしないのだ。黙していては、伝えずにいるばかりでは、恐らく我が心さえ扱うことはできないのかもしれない。
言葉は人間を変える、というのなら、転じて、口を噤んでいては、人は変わらないのだ。変われないのだ、きっと。

何故、私は言葉を日々綴るのか、綴りたいと思うのか。サーバに己の日常のログを残していきたいと思うのか。それはこのメカニズムがもたらす神の如き「力」故なのかもしれない。木材を掘る彫刻刀のように、己の指先で、より微細な細工を凝らした彫像を作っていきたいと、わたしはそう、思っているのかもしれない。