my trivial daily life

観劇備忘録のようなもの

やわらかなことば

遅く起きて、ぼんやりとした空とぼんやりした己の頭を比べてみても、なんにも浮かばない日曜日。明日は娘の学校は代休なので、学童クラブに終日行くことになる。そんなわけで、明日持たせるお弁当の買い出し。


保育園時代の友達に会い、お母さんに近況を何気なく尋ねたら、厄介なことになっていたらしい。男の子の方が色々あるようで、保育園という多分に母性的な社会から小学校という規律や協調を求められる社会へと移行するのは、順応性が高いとされる子供でも、子供子供した男の子にはしんどかったのかもしれない。
何かいいことは言えないものかと思うのだけれど、彼女の心を軽くしてあげる魔法のような言葉は浮かばなかった。でも、あなたがそれだけ心を痛めているという事実は、絶対子供にも伝わっているよ、と言って、彼女は「そうね」と頷いた。わたしだって悩んでばかりの親だけれど、親がただ叱りつけるとか、安直に決めつけるとか、見て見ぬ振りをするとかじゃなくて、ちゃんと当事者同士が納得する結論を出そうとする姿勢は絶対に不可欠だと思うのだ。ともあれ、こんなわたしにでも色々話してくれることが本当に嬉しい。


娘が珍しく「南瓜を煮て欲しい」とスーパーで言ったので、帰宅して、南瓜と格闘。南瓜は好きなのだけれど、包丁を入れるのが困難であるという点と、素材によってかなり仕上がりが変わる点だけが厄介である。炊きあがった南瓜を菜箸で刺して、そのまま台所で味見する。今日の南瓜は当たりだった。ほくほくして甘い。煮くずれもなく上出来。ご飯のおかずには今ひとつなので、煮上がった南瓜をおやつのように出してあげる。
祖母も母も南瓜を煮るのが得意だった。よく炊きたての一切れ二切れを台所で食べさせてもらったっけ。いまは同じように娘が味見と称してにこにこしながら湯気の出る南瓜を食べている。親子三代の光景。

そのあと、何に勢いづいたのか玉蜀黍を茹で、また食べる。夕食前にたくさん食べてしまったのでゴロゴロしていると、いつの間にやら床が絵本で埋まっていた。沢山の絵本を広げては読んでくれる。絵本はいくつになっても、誰でも帰ることのできる場所だ。もう平仮名だけの本など卒業したように見えても。


ふと、思う。この絵本たちの言葉のように、難しいことを難しく言うのではなくて、できれば複雑なことも平易な言葉で伝えられたら、と。誰の胸と頭にも届く、やわらかな言葉で。


生きていて、こうやって言葉を絞り出す時間は限られているのだから、争うことや貶めることや批判することに使うより、せめて優しい言葉を紡ぎたい。ありがとう、とか、嬉しい、とか、好きです、とか。生きている間に一つでも多く、温かな言葉を発したい。
だからといって、気持ちとかけ離れた優しい言葉を濫発するのではなく。ややこしいと押し黙るのでもなく。
摩擦を承知で発する言葉があっても、それは本当に温かな気持ちを交わしたいから。少しでも相手と自分に近づきたいから。ちゃんと自分の胸の真ん中にあるもやもやを形にしたいから。本当の気持ちを大事に手のひらに載せて相手に差し出したいから。そうありたいと思う。


綺麗事かもしれないけれど、それでもいい。言葉を優しくて、柔らかなことに使いたい。そんなことを思う。