my trivial daily life

観劇備忘録のようなもの

有罪答弁

有罪答弁〈下〉 (文春文庫) 有罪答弁〈上〉 (文春文庫)
『有罪答弁』 スコット・トゥロー著 上田公子訳 文春文庫 ISBN:4167527332 ISBN:4167527340

妻に逃げられ一人息子は非行に、警官あがりの中年弁護士マックは560万ドルの金と共に行方をくらました変わりものの僚友バートの捜索を命じられる。自分を敵と狙う警官時代の元相棒ピッグアイの執拗な妨害をかわし、弁護士らしからぬ手口でバートの家に侵入し、冷蔵庫を開けたマックをにらみ返したのは、脚を曲げた死人だった。
(ブックカバーより転載)


人には、これまでの人生と全く違う生き方をしたいと思う誘惑がないだろうか?
朝の通勤電車から覗く青い空を見つめて、このまま違う電車に乗り換え、行き当たりばったりで旅をしてみたら、どんな世界が広がるだろうと夢想してみるように。これまで築いてきたものを大切に思う気持ちもありながら、それでも、何となく見え始めた人生のグランドヴィジョンをそっくり描き換える夢を見たりはしないだろうか?
自分の人生から抜け出るという、壮大なヴィジョンを、多くの人が一瞬夢見たとしても、多くの人はいつも通りの電車に乗り、いつも通りの毎日に戻る。それがどんなにちっぽけなものだとしても、見え始めたヴィジョンを完成させるために。



リーガル・サスペンスの巨匠、スコット・トゥローの三作目。これまで沢山このジャンルを読んできたのだが、トゥローはそれらとは趣を異にする。今回は裁判の「さ」の字も出てこないような、裁判未満の話だ。法律事務所の内情、クセの強い登場人物たち、そして誰が何をしたのか、という謎が、主人公がディクタフォンに口述するという形で綴られる。主人公の持つアイロニカルで内省的な視点が全編にプロット以上の何かを醸しているのが、トゥローのトゥローたる由縁かもしれない。プロットがしっかりと堪能でき、それに飲み込まれると言うよりは、骨組みに非常に複雑な意匠を凝らしてあるのだ。そのため手袋越しに事件に触れるような複雑な感じがする。


傍目に見てどのように成功した人物であっても、それが幸福なのかどうかは結局他人には分からない。己を取り巻く人々も、知っているようでいて、見せているのはその人のほんの一部の社会的な仮面に過ぎない。一人の人を深く探るとき、見えてくるものは、自分とさして違わない悲しさや苦しさだったりする。主人公マックはバートの行方を探すうちに、彼のプライベートな部分や、事件と関わった人々の仮面の下の顔や、複雑な関係を知っていく。
そして複雑な筋書きを幾つもトレースしながら、マックはディクタフォンに語り続ける。「特定できぬあなた」と呼び掛けながら。己の胸の内一つに秘めておけばよいことも、赤裸々に語らずにいられないのは、如何に複雑な心の持ち主であろうと、いや、複雑だからこそ、人は一人では生きられないことの証でもあるように見える。マックのようにひねくれた思考の持ち主であっても、人は他人に理解され認められたいのだ、と。


全ての謎が消えたとき、「人生の大半は意志でできている」「世の中には被害者は存在しない」と己を慰めていたマックは知る。誰もが、幸せではないのだと。優秀な首席パートナーも、前途洋々な辣腕弁護士である恋人も、因縁の敵たるピッグアイも、誰もの心に巣食う深淵を見て、彼は最後に言う。

世の中には被害者しか存在しないのだ。


電車を乗り換えて、知らない場所へと辿り着くには非常な労力が必要だし、知らない生き方は魅力的だが恐ろしくもある。それをやってのけるのに必要なのは、勇気なのだろうか? 無謀さだろうか? それとも、ほんの少しのきっかけなのだろうか?

この物語の奇妙なカタルシスは、そんな夢想を叶えてみる誘惑にあるのかもしれない。