my trivial daily life

観劇備忘録のようなもの

それはイマジネーションの欠如なのか?

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040603-00001078-mai-soci

子を持つ母として、なんだかどうしようもなくやりきれない気分。彼女のしたことはどうやっても理解できないし、テレビドラマを真似てやったとしても、小6ともなれば、テレビと現実はごっちゃにしていい年じゃないだろうとも思うし。「なんでやったのか。よく考えて行動すればこんなことにならなかった。(怜美さんに)会って謝りたい」と語ったそうだけれど、ため息が出てしまう。
テレビだとかゲームだとか(もちろんそれだけを悪者にするつもりはないが)、わたしたちが子供時代に抱えていなかったものがより豊かになっていく分、技術が進んで美しく提出される分、イマジネーションというのは萎えていくのかもしれない。生々しい表現を避けて、ラッピングされて出てくる作品たちは、生死のリアリティすらも奪っていくのかもしれない、と。
たとえば、スーパーのお肉が綺麗にカットされてトレーに入れられているように。その景色に慣れていくと、それがもとは命を持つ物であり、わたしたちは他の命を食して生きているのだという感覚さえ鈍くなっているのと同じように。


それと、いろんな方の意見を見ていると、子供なのに、と反応している人が多いけれど、ちょっと違和感。
小学生高学年の女児って、見ててわかるけど結構「女」なんですよ。女の嫌な部分とか男子から見て怖い部分とか既に男の子より一足先に持ってしまってる。しかもそれが、オブラートにくるまれていない分、大人から見ると恐ろしいことこの上ないわけで。既に生理的にも女性の機能を持っている場合が大半だろうし、となると当然ながら厄介なホルモンなんかも活動しちゃってるわけで。大変なのよ。


インターネット上で嫌なことを書かれた、という動機は実生活上の友達でもあったからなんだろうなあ、と思う。それは理解して欲しいと思う気持ち、近づきたいと思う気持ち、それが裏切られて転じた憎悪なのではないかと。ただネット上でのやりとりだけならば、彼女だってこんなに怒ったりはしなかったんだろうな、と。
わたしはかねがねネットとリアルでの境界線みたいなものを感じていたのだけれど、同じ人でもネットで受ける印象と実生活での印象は違うものだ。それは二面性とか表裏とかいう単純なものではなくて、表に現れるもの、見えやすいものが違う、というだけのことだ。学校で見る相手と、ネットで見る相手と、そこに違和感を感じたとしても、それは寧ろ当たり前のことなわけで。
実生活では隠していることをネットでは晒したくなったりとか、そんなことは多くの人にも心当たりがあることだと思う。自分に向けられた言葉だけじゃなくて、言葉の向こうにある相手の顔もちゃんと想像してみて欲しかったな。



ただ守るだけじゃなくて、傷つければ血が流れることも、傷ついたら耐えることも、そして傷ついたよと伝えることも、なんらかの解決を図ることも、ちゃんと教えていかなければならないんだよね。親としては。
イマジネーションというのは経験を通して膨らませられることも多いのだから、親としては胸が痛いことがあっても、歯痒いことがあっても、やっぱり我が子には「いっぱい傷つけて傷つきなさい、いっぱい泣きなさい、いっぱい悩みなさい、そしていっぱいいっぱい笑いなさい」って、言ってあげたいなと思う。んなかっこいいこと言って、多分物陰から地団駄踏んでるはずなんですけども。