my trivial daily life

観劇備忘録のようなもの

負け犬の遠吠え

負け犬の遠吠え
酒井順子著『負け犬の遠吠え』*1が話題になっている。

どんなに美人で仕事ができても、30代以上・未婚・子ナシは『女の負け犬』

と、著者自らが負け犬宣言をしたエッセイだが、負け犬と言うネーミングのインパクトがあるせいか、うちの会社のボス(59歳♂)までが知っている。*2

読んでみてその分析の細やかさに感心してしまった。これでもか!というくらいの鋭い分析、瞑ろうとしてしまう目を見開かせるかのような解説、そして、ひりつくような自虐の快感。
敢えて言うまでもないことだが、人生にそもそも勝ち負けなどあるはずがない。そんな正論*3は誰もが承知で、それでもこの話題が盛り上がってしまうのは、話題の軽妙さの奥底に何か深いものが横たわっている気がしてならない。
如何に女性が社会進出すれど、嫁に行き子を産むのが「女の幸せ」という依然ステロタイプなものを社会や周囲から求められているからなのだろうか? いや、それよりも本人自身がそういう人生を求めているか、それ以上に、そうならなければならないのではないか?というプレッシャーを感じているのかもしれないなあ、などと、悲壮とまで言える文章を読んでつらつら思う。

そういえば、かのアリー*4も「たいした夢じゃない。仕事で成功して、子供3人産んで、夜だんなさんに足さすってもらいたいだけ」と豪語している(笑)。それが「たいした」夢じゃないかどうかはさておき、嫁がず、産まずして女性の人生は満ち足りないのだという強迫観念のようなものに結婚適齢期と言われる年齢以降、女性はずっと取り付かれているのかもしれない。
婚せず、産まず、その方が幸せな人生だって勿論あるだろう。逆に勝ち犬はみんな幸せかといわれると、到底「勝ち」とは言えない場合もある。至極当然だが、どちらにもいいこともつらいこともある。幸福は目に見える状況だけでは判断できない。なのに、だ。独身ということに納得している場合はともかく、結婚も子供も望んでいた場合、そうならない現状を是とできない何かがある。そのこそが女性の心に巣食う問題のように思う。
笑うも泣くも、反論するも、自ら負けを標榜するもいいのだけれど、夢見たヴィジョンが現実とは懸け離れていることを、特別不幸に思う必要はないはずなのだ。望むものがただ手に入っていないだけのこと。当然手に入ると思っていたものが、当然ではなかったと言うだけのこと。そんなことは、取り立てて珍しい話ではないのだから。

アリーの名言*5を借りるなら、本当に欲しいかどうかも分からないのに振り回され、手に入らないことが「欠陥」のように思うのは悲しい呪縛だ。多くの女性がもう少しそのことから開放されたっていいような気がする。

*1:講談社刊。ちなみにわたしは借りて購読。ハードカバー買いたくない主義(笑)。

*2:ボスの話によると、この負け犬論争を巡って、婆菌族(”ばあきんぞく”と読む。女子のステイタスシンボルエルメスバーキンのモジリ。夫も子もいないがバーキンは持ってるわよっ!という人たち)が現れたりしているのだそうな。

*3:どうしていつも正論って人の心を打たないんでしょうね。あ、つまらないからか。

*4:キャリスタ・フロックハート演じるNHK海外ドラマ「アリー・myラブ」の主人公。アメリカ、ボストンの負け犬代表。そういえば、日本語の吹替は旬の人、若村麻由美でしたっけ。

*5:「欲しくないものまで欲しがるのよ、女だから」。女って怖いですね(笑)。