my trivial daily life

観劇備忘録のようなもの

わが闘争

娘はこの春から中学2年生になり、なかなか手ごたえのあるお年頃になってきた。普段はいい子ぶっているのではあるが、一度問題が発覚すると、ああ言えばこう言う、人の揚げ足を取ることばかり上手で、その根っこは自己中心的解釈、反対されると分かっていることはごまかし、嘘のつき方は巧妙になり、何か指摘されるとしらばくれた挙句に証拠を突き詰めれば「みんなやっている」と開き直る。
わたしが知りたいのはみんなのことじゃない、君はどうなんだ、それでいいのか?と詰め寄ると、いいとは思っていない、とのご返答なのだが。ぶんむくれた「すいませんでした」しか返ってこない。
「自分を変えられるのは自分だけなんだよ」
滔滔と分かってほしいと熱弁をふるっても、いったいどこまで伝わっているのやら。もはや口を酸っぱくして言うのも疲れた。憎まれ口もかわいいと思える心の余裕もなくなってきた。だけど放っておくのは心配すぎる。
そんな苦闘を繰り返し、ある日「あったまきた、もうしらん! それほどご立派ならば自分で勝手になさい!」というやけっぱち戦法を繰り出してみた。小さなころから話せば分かると、なぜいけないのかを一生懸命説明してきたつもりだ。だからこれは今まで採択したことのない手法であり、我慢を覚悟だった。題して「押して駄目なら引いてみな」作戦である。

翌朝。わたしが「勝手にしやがれ」とふて寝をしていると、彼女は6時半に自分で起き、朝シャワーを浴び、おにぎりを作っていた。毎朝毎朝起床させるのに最低30分かかっていたのに、挙句八つ当たりまでされていたのに、である。さらに驚いたのは、彼女が出かけた後の部屋はかつてないほど片付いていたことである。その辺の男子より汚いと言える、足の踏み場もない部屋にあっという間にしてしまう才能の持ち主なので、わたしは娘を幼少より「ぱなしちゃん」(出しっぱなしなので)と呼んでいたのに、ああ、いまや机の上が見える・・・。床が見える・・・お菓子の包み紙とか落ちてない・・・あらゆるものが所定の位置に整理されている・・・。
いや、これは最初だけ。まだまだ許すわけには行かないわ! 我慢、我慢・・・。
帰宅後も冷戦を続行していると、夕方になると、娘は冷蔵庫をあけ、鼻歌を歌いながら夕食を作っている。夕食後は、食器を洗い、わたしのいるところへ来るのも気まずいため、テレビを見ず、自室で勉強している様子。よって自室を快適にするため、さらに部屋の美化が進む。初日ほど朝の余裕はない日もありながら、冷蔵庫の作り置きを食べたりしながらも、彼女の生活態度は明らかに激変したのである。

短期戦で音を上げるだろうと思っていたのだが、この微妙な冷戦*1は長期戦になるかもしれない。
そんな覚悟をしはじめた、ある日。
シンクに、コップとお箸がぽつんとおかれていた。おそらく洗い忘れなのであろう。
自分の使った食器と一緒についでに洗ってしまうのはたやすい、むしろそうしたい。ああ、洗ってしまいたい。気持ち悪い。邪魔だし。そう自分の中で声がする。
しかし、これを洗うのはなんだか「負け」のような気がするのだ。敵の巧妙な懐柔作戦のような気もする。ここを許したら何かが元の木阿弥、いや反動で以前以下になってしまう気もする。
でも洗ってしまいたい・・・。いや、しかし・・・・。

キッチンとリビングを無意味に往復し、見ない振りをして他の家事をこなし、またキッチンが目に入り・・・。

数時間の煩悶の後、この心の状態を表現するに足るアイディアが閃いた。
わたしはコップを洗い、箸を片方だけ洗い、洗いかごに入れた。
シンクに置き去られたのは箸一本。

箸は一膳そろわなくちゃ使えない。たいした手間ではないけれど残った一本は彼女が洗うことになる。洗ってあげたようで、用を成さない、この中途半端な感じは、なんだか今の心理状況をうまく表しているような気がする。
うむうむ。してやったり。かの梶井基次郎先生も檸檬を丸善に置いた時、かくも清清しい心持であったであろうか、などと一人悦に入り、わたしは心の平穏を得たのであった。

*1:最初はメモだったものが、必要最低限のことを話すうち、呼び止められて塾でほめられた話をしてきたり、こちらもこんなことがあったよ的会話はしているので冷戦は微妙に緩和しているのではあるけれど。