my trivial daily life

観劇備忘録のようなもの

珍妃の井戸

珍妃の井戸 (講談社文庫)

珍妃の井戸 (講談社文庫)

列強の軍隊に制圧され、荒廃した北京。ひとりの美しい妃が紫禁城内で命を落とした。4年前の戊戌(ぼじゅつ)の政変に破れ、幽閉された皇帝・光緒帝の愛妃、珍妃。事件の調査に乗り出した英・独・日・露の4人の貴族たちを待っていた「美しい罠」とは?降りしきる黄砂のなかで明らかになる、強く、悲しい愛の結末。


浅田次郎のことだ、単なる『蒼穹の昴』の続編や番外編じゃないだろうな、と思って読んだら、本当にそうだった。この人は役者が新しい舞台に立つように、たやすくスタイルを変えてしまう。たいしたものだと思う。
これは歴史小説と言うよりミステリーと思って読んだ方がいい。歴史ロマンものではまったくないが、単純なミステリーとも言い難く、クックのような、独特の後味を持っている。からくりが面白いのではなく、人の心の奥底の方が遙かにミステリアスなのだと教えてくれるような。

宮廷の深くでひっそりと起こった事件。真実を知るのはごく僅かの貴人たち。複数の人間が語る事件の真相は、語る人ごと様相を変え、一体何が真実なのかわからなくなっていく。人の心の分だけ真実はあるのだ。他者の瞳を通して見える世界は、自分のそれとは様相が全く違う。
そんな幾度も思い知ってきた、当たり前のことを強く感じる。

身分も性別も異なる語り部たちの独白は引き入れられるような魔力がある。特に女性の話し言葉は心地よくて、歌を聞いているかのようだ。

幾重もの語り部を通して、導かれるように宮廷の奥深くに分け入り、やがて紗を剥いでいくように見えてくる真実は、美しく哀しい。

それでも、天命を負い、それを嘆くことなく、愚痴ることなく、恨むことなく、己のプライドに替え、胸を張って歩こうとする、そういう人であれかし、という浅田節はここにも見える。浅田次郎の小説の主人公たちが美しく、しかも泣かせるのは、命を張った矜持を持っているからだろう。