my trivial daily life

観劇備忘録のようなもの

夏と花火と私の死体

夏と花火と私の死体 (集英社文庫)

夏と花火と私の死体 (集英社文庫)


参った。さんざん言われ尽くしたことだろうけれど、16歳でこんなもんが書けるなんて、おったまげた。たまったもんじゃない。若いが故の青臭さもなく、若いくせに老獪なわけでもなく、背伸びもせず、大風呂敷も広げず、斜に構えるわけでもなく、ただ淡々と綴られる語り口。ゾクゾクとする緩急ある物語の抑揚。確かな筆致。いったいどうやったらこの観察眼と語り口を10代で手に入れられると言うんだろう。
「私」という極めてありふれた一人称が、かつてないほど斬新に見えた。夏休み、花火大会、ラジオ体操、秘密基地、田園風景、そんな古き良き夏の記憶の中で、残酷で不気味な物語が淡々と語られる。冒頭からあっけなく終わり、そして始まっていく「私」の行方にハラハラしながらページを繰った。夏の匂いと共に子供時代に持っていた大人や社会に対する抑圧された緊張感を思い出していた。見つかってはいけない、でも心の奥底で、いっそ見つかって張りつめた糸を解きはなちたいとも願う、そんな矛盾した緊張感を。
子供は愛らしい。けれど同時に子供ほど無秩序で支離滅裂で恐ろしくて、手に負えないものもない。そんながらくた箱を覗いたときのような気分だ。

同時に収められた『優子』という作品も語り口こそ違えども、「好き」という気持ちや「遊び」というものの原始的で暴力的な力を改めて思い出す。そしてその洗練されていない思いの前に畏怖さえ憶えてしまう、そんな作品だった。