my trivial daily life

観劇備忘録のようなもの

Identity

非常に分かりやすく好き好き光線を出してくる人がどうも苦手である。何も会話など始まっていない内からお目目を輝かせてにじり寄られると、わたしはじりじり後退をし出す。正直に言ってしまうと引いている。何故って、たいていの場合、そういった人はわたしなんてものをまるで感得しようなどと思っていないように思えるからだ。
この人は優しいとか、この人は冷たいとか、この人は強いとか弱いとか、見た目や話し方から、人に安直なレッテルを貼るのは簡単なことだ。そうやってカテゴライズしておけば、自分の中での対応がしやすいからかもしれない。だけど、一人の人間には弱い部分も強い部分もあるし、優しい部分も冷たい部分もあるものだ。人は多面体なのだから。そんな一人の人間を丸ごと理解するなんてことは一生かかったって出来やしないはずなのに。

そしてわたしの場合厄介なのは、そんな風にして貼られるレッテルはどうも親しい人がわたしに持っているものとは大きく違うのである。そのことに傷ついたり、そのことで悩む日々は過ぎて、今は「分かる人にだけ分かればいい」と開き直ることが出来た。大事な人には「本当はこう思っている」と伝えることも出来るようになった。
それでも、レッテルを替えたがらない人とか、違うことを示していてもまるで見えていない、という場合は間々ある。それはその人が、依然そういう役割をわたしに求めているからなのかもしれない。勿論それにつき合う義理はない。同様に、誤解を解く努力などという、大変労力のいることをする必要もない。ただ、分かってさえいればいい。
わたしの好きなわたしは、あなたのそばにいるときのわたし。頬がやわらかくなって、同じ空気が流れる。ありのままでいられる。そのことだけを分かっていれば。