my trivial daily life

観劇備忘録のようなもの

彼らは何故ドラマを見ないのか?

男性でドラマを見ない人が多いが、それは何故なのか、という漠然とした疑問がおいらwithほぼ日テレビガイドを読んでいて、氷解する。ドラマ嫌いの男性的な目線で詳細に語られたドラマの感想がすごく面白い。そこにはドラマを見慣れた人のお約束の視点などなくて、徹底的にまじめにドラマにつき合っている。

たしかに、ドラマって、辻褄とか、ツメとか、妙に甘かったりして、それが見慣れていないとどうしても気になってしまう人はいるんだろうなと。いつの間にか自分もこういう詰めの甘さは「ドラマだから」という視点で見ていて、慣れすぎていて気にならなくなっている部分が多いのにも気づかされた。けれども、こういう気持ちの悪さはたしかに全体に影響していて、長々見続けていた割には最終回の感慨も少なく、忘れてしまう。もう一度見たいとか、忘れられないと思うドラマは圧倒的に少なく、いわばドラマは消耗品のようなものとしてしか残っていないのが大半だった。

その時流の空気とか、旬のキャストとか、曖昧なテーマとかで、作ってしまうドラマたちはなにがしか心の気になる部分を掠めて、それでも核の部分をぎゅっとは掴まえてくれなくて、なんだか触れられた部分がむず痒いような、気持ち悪いような、変な気持ちになってしまう。ここを触ると、きっと人の心の柔らかい部分を掴まえられるんだろうなというような嗅覚だけは発達していて、制作者側の言いたいことは実に薄っぺら、そんな印象をこのところずっとドラマに感じていた。

結局このドラマは何が言いたかったのか、とか、あのとき主人公はこう言っていたはずなのに、そのこだわりは何処へ行っちゃったんだ?とか、あそこはいいシーンだったからこう流れると思ったのに、その流れを逆流させるのはどうかしら、とか、そういう割り切れないもやもやを見てしまうと、やっぱりドラマは映画じゃないのね、要するに作りが甘くても仕方ないのね、とか思ってしまう。けれども、そういうもやもやは実は結構多くの人が持っていて、それをちゃんともやもやしてるぞと訴えてみる人もいるわけで、それが面白いドラマ批評になっていたりするのだと思う。


たとえば、3年B組金八先生なんかは一貫として青少年の非行をどう考えるか、どう対処するかを模索してきたドラマで、中学生の妊娠や思春期心身症性同一性障害といった難しい問題さえも、デリケートさを重々知りながら「それでもこう思う!こう言いたい!」というのを見せ続けてきたんだと思う。そしてだからこそ人気も出たのだろうし、そのテーマをきちんと把握し、臆することなく扱ってきたからこそ、多くの誤解や無用に人を傷つけることも避けてこられたのではないかと思う。
そのテーマに対してとことん突っ込んでみました、とか、これはデリケートなテーマだけれど、敢えてこう訴えたいとか、そういう制作者側の必死で真摯で熱い気持ちみたいなものがなければ、人の心を打つものは到底できやしない。


東京湾景を見ていて、なんだか「本当の私」とかいう言葉に、ムズムズ違和感を感じて「たぶん来週は見ないな、このドラマ」と思ったのだったが、ここを読んで改めて感じた。id:kimchiさんの憤懣は、分かるなどと簡単にいってはいけないのかもしれないけれど、真摯に伝わってきた。
要するにあのドラマを見て感じた違和感は、「本当の私」なんてアイデンティティの問題を国籍と絡めて恋愛風味を付けてごちゃまぜにして極めて曖昧に語っちゃうのは乱暴すぎないか?ということだったのだ。そもそも「本当の私」なんてものは「見つけてください」と他人様にお願いするもんじゃなくて、己で「見つける」ものだ。若しくは大切な人を通して「気づかされる」ものだと思う。本当の私は、生まれて、育てられて、泣いて笑って、傷ついて傷つけて、ご飯食べてテレビ見て仕事してトイレ行って生きてきた、この私の中にしかないはずだ。そういう自分の問題を「見つけてくれ」とまるごと相手に投げ出す姿勢ではじまる恋愛って、どうなんだろう、と。そう言う違和感を感じていたのだと思う。


というわけで、トレンディな要素を満載にしてみたけどテーマは曖昧っていうドラマはたしかに多いんだけれども、そういうドラマばかりじゃなくて、キチンとテーマがあって骨格があって、キャストもよく練られていて、という出来のいいものもたまにはあるんだよ。そしてそれは毎週同じ時間に見るのが苦痛だとか、見ているときにも時計が気になるとか、辻褄が納得できないとか、そういうことはないんだよ。大丈夫だよ。
だから、明日はあなたも「新撰組!」見ませんか? もう池田屋なんですけども。