my trivial daily life

観劇備忘録のようなもの

黒い薔薇

黒い薔薇 (ハヤカワ文庫NV)
『黒い薔薇』 フィリップ・マーゴリン作 田口俊樹訳 ハヤカワ文庫NV ISBN:4150408734



原題は「Gone,But Not Forgotten」――去れど忘られず。それは、犯人の残したメモの言葉だ。そこに添えられた黒く染めた薔薇と。それだけが唯一の犯行の証拠なのだ。指紋も抵抗の後もなく次々と行方不明になる裕福な階級の女性たち。それは10年も前に終結したはずの悪夢の再来だった。


やられっぱなしです。徹夜本という称号はこの本に贈呈することにしました。読み始めたら止まらないでしょう。面白かった。文句なく。当初の予測は大きく外れ、リーガル・サスペンスでお腹いっぱいになるどころか、おかわり!もう一杯!って感じです。まだまだいけるぜぃ。多分この勢いで次作の『暗闇の囚人』へ突入するでしょう。間違いなく。
こんなに面白い本ばかり読み続けた1ヶ月は、幸福を通り越しているのかもしれない。正直言って、この後いろんなミステリーに物足りなくなるんじゃないかと怖い。


頭角を現し始めたポートランドの女性弁護士、最高裁判所長官に乃も任命されようとする上院議員、ポートランドの名士である建設会社社長、彼にまとわりつく黒い陰、ニューヨークの殺人科刑事、ポートランドの検事、最初はまるで接点の無いように点在する人間が描かれ、場面は次々と切り替わる。疑惑の中に浮かぶのは、不気味な失踪事件。そしてそれがぎこちない線を結び、最後には思いもしなかった見事な絵ができあがっている。これはもうプロットの勝利だろう。おまけに謎解きには、とんでもない隠し球がある。予想を裏切られる楽しさを堪能できるのは、ここ一ヶ月の中で読んだ本の中ではこれが一番だろう。ページ数で計るのはナンセンスだとしても、この厚さでこの読後感のボリュームと満足感を与えてくれるのは凄いと思う。


パタースンは綿密なプロットと法廷描写の丁寧さ、人間描写の巧さと細やかで複雑な楽しみがあるが、それ故に破綻のない謎を用意する。ある時点から怪しい人物は予想されてしまうだけに謎に驚くというのとは少し違う。マーゴリンの謎はもっと大胆でありながら、強引だったり性急な感じはない。グリーンのようにこなれていない感じもない。そしてこれまで読んだどの殺人犯よりも、わたしはこの本の犯人がもっともリアルに怖かったし、どんな下品な表現を使っても飽き足らないくらいに嫌悪感を感じた。『子供の眼』のリッチーは唾棄すべき男だが、まだ人間であるとは認められる。けれど、こっちの犯人はモンスターだ。グリーンの描いた犯人よりもずっとリアルで恐ろしい。


俳優の世界では、いい人を演じるのは比較的簡単だが、悪役を演じられるのは善人だけだ、と言う。妙に腑に落ちる言葉だと思う。有名な悪役は素顔は拍子抜けするほどいい人が多かったりするものだ。善を知らなければ対極にある悪は把握できないものなのかもしれない。
リアリティのある悪を描けるのは、それを客観的に見られる人間の幅が広いからなのだろうか、と作者の心の幅を思う。わたしにはとてもあんな凄絶な仕打ちは思いつかないし、どう頭を捻ってもあんなに悪辣な人間は描くことはできない。要するに人間のキャパシティが狭いのであろう。そんな自分をまだまだだな、などと思ってみたりする。
ともあれ、んまかった。ごっつあんです。