my trivial daily life

観劇備忘録のようなもの

影法師

娘が興奮して帰ってくる。同じ小学校の1年生の女の子が下校中にバイクに接触して、怪我をしたらしい。話が断片的でよくわからないのだが、顔や腕を打ち、腫れて血が出たと言うから、かなりの怪我だったのだろう。幸いお母さんがすぐ駆けつけてくれたらしいが、バイカーはその子の顔を見て「ごめんね」と言って、逃げてしまったという。その場にいた娘は、こういうときとても敏感なので、かわいそうで泣いてしまって、「何でおまえが泣くんだよ」と男の子に言われたとか。何かしてあげたい!と言うので、じゃあ、元気に学校に来たら、お手紙でも、楽しい話で笑わせてあげることでも、自分のできることでしてあげようね、と話す。
それにしても、いくら動揺したからと言ってその場を逃げるのは、やっぱり大人のすることじゃない、と憤りたくなる。何故か知り合いにバイク乗りが多くて、バイカーに対していいイメージしか持ってこなかったわたしだけど、残念ながらこういうことをする人もいるんだよね。小さな子を謝って傷つけてしまう、という胸の痛みも動揺も理解できるけれど、大人がこうじゃ、子供に「それが故意じゃなくても人を傷つけてしまったら、どうすればいいのか?」ということさえ教えられなくなる。
3年ほど前、保育園の帰りに、娘が曲がり角から出てきた車と接触したことがある。その時は幸い、こつん、と軽くぶつかった程度だったのだが、あのときの動揺は今でも覚えている。ドライバーは車を止めて、窓から顔を出し「大丈夫ですか?」と聞いた。わたしは即座に答えられなかったが、帰りが一緒になったお母さんが「大丈夫じゃないわよ!」と一喝してくれたおかげで、車から降り、連絡先を交換できたのだ。その後2日間、その方から異常はないかと問い合わせる電話があった。ああ、この人も心配し、こちら以上に動揺しているんだと、その時に感じた。きっとこういう時は事故の直後より余波の方が大きいのだろう。幸い娘は異常がなかったのだけれど。あの時、もし彼女がいなかったら、わたしは咄嗟に「大丈夫です」と言ってしまったかもしれない。そのことをとても帰り道反省していた。咄嗟の対応ができない自分を責めていた。ふと見ると娘が泣いている。「どうしたの?」と聞いたら「ママの気持ちが伝わって涙が出た」と言った。何が伝わったのかはわからない。けれど、たった4つの子なのに、あの涙は、とても複雑な感情の表れのように感じたのだけれど。思い出すと今でも胸が温かいような切ないような、複雑な気持ちになる。
間違いは誰にでもある。そして、全ての時に最良の判断ができるはずもない。逃げ出したくなるときもある。なかったことにしたいと思うときもある。けれども、たとえ逃げたとしても、やってしまったことからは逃げられはしない。彼が今夜いい気持ちで眠れるはずもないだろう。そのことを思うとため息が出る。たいしたことがないと思っているか、それとも気になって仕方がないかはわからないけれど、自分自身の気持ちからはどうやっても逃げられるものではない。自分の為したことの罪の重さを決めるのは自分自身なのだから。そしてそれを許してあげるのも、自分にしかできないことなのだから。
少なくとも、逃げることはしたくない、そう思う。自分の影法師から逃げ続けるのは、真正面を向くよりも、ずっとずっと終わりがなくてしんどいことだから。