my trivial daily life

観劇備忘録のようなもの

元旦の大掃除

新年の挨拶もそこそこに、両親に暇を告げて、午前の便で羽田に向かう。飛行機は予定通り昼過ぎに着き、空港でお茶を飲み、娘は母の持たせてくれたおにぎりを食べた。年が明けた東京は少し静かで、行きかう人の様子も少しのんびりと見える。お盆とお正月の東京が好きだ。空っぽになってしまったお腹の中に潜り込んでいるみたいで。
見慣れた商店街のシャッターに貼った新年の挨拶と営業開始日の案内を指さして読み上げながら歩く娘とアパートに帰る。我が家の冷蔵庫も空っぽだ。
荷解きもしないうちから、娘は冬休みの課題であった「おうちの手伝い」の計画の窓拭きをしたいと言う。そんなわけで、新年早々にできなかった大掃除に取り掛かる。脚立を取り出して、電気のブレーカーや電球の傘を拭き、換気扇を外し、換気口を綺麗にし、排水溝の汚れを落とし、エアコンのフィルターを洗い、食器棚やたんすの上を拭き、カーテンを洗濯し、カーテンレールや窓のサッシを拭き・・・と思い付くまま体を動かす。日々を送るうちにこびり付いてしまう澱のようなものがこそぎ落とされていくようで、心の中まで同じようになれるようで、気持ちが良い。

けれども、昔はしなかった換気扇や電球の傘やフィルターなどの家電の取外しが、一つ一つできるようになっていくことに一抹の躊躇や寂しさを覚えるのは何故だろう。いや、しなければならない状況にあることに不安を感じるのだろうか?
難しいことではないのに、したくなかったのかもしれない。誰かの介在を必要とする余地みたいなものを残しておきたかったのかもしれない。一人でできるようになるのは、一人で生きていけることを意味するようで、怖かったのかもしれない。人は一人で生きていけるものではないと分かってはいても。

家具をどかし、溜まった埃を掃除し、少し配置を換えてみた。一旦手を付けるとやめられない性分なので、さまざまな収納に頭を悩ませ、より効率よい空間を考えて時間が過ぎてしまう。見慣れているけれど少し新しい、小さなマイホーム作りにこの年始は追われそうだ。