my trivial daily life

観劇備忘録のようなもの

溜息になって この掌にふわりと落ちるのは

夏の終わりのしどけなさ 秋の初めのやるせなさ 


幾度も巡った 道程は 百日紅散る雨の中
幾重も纏った 韜晦は 金木犀薫る風の中


うねりながら よろめきながら
のたうちながら うめきながら
 

まあるく つめたく 冷えていく
掌の珠を
なんと 名付けようか



何と 呼んだなら
相応しいのだろか

手すさびの・・・

習慣とは恐ろしいもので、一度さぼる癖がついてしまうと、日常の中から書くと言う作業を忘れてしまいます。そういえばしばらく日記を書いていないなあ、などと気づいて、なんだか今更な気もしながら日記をつけていたりします。なんでこんなになっちゃったんだろうなぁ、などと思ったりはするのですが、このまま書かないでいると「書かない」のではなく「書けない」になってしまうような気がして、やらないよりはマシ、程度の気持ちで書き始めたりするのです。でも、そう言う時って久々だと調子が出ないのよね。運動神経みたいなもので、書くという行為をするプロセスを忘れてしまうというか。随意筋が上手く動かないもどかしさ、というか。本人がこんなだから、読んでいる方も楽しくないかも知れないし、とか考えてしまうと、もういけません。だから考えません。ええ。きっぱり。

でも、書かない日々というのはある意味、健全な日々にも思えるのです。書くことがない、思うことがない、あるいは表層に出てきていない。心の中の何かが閾値に達していない。夜の窓に向かって誰にともなく話したり、行く宛のない手紙をしたためて海に流したりするような何かに突き動かされていない。
書くことは苦しくて、恐ろしくて、途方もなくて、でも気持ちよくて。
そう言う何かがなりを潜めている、というのは、幸か不幸か、分からないけれど。でもそれはけして死滅したりはしないのでしょう。そして若かりし頃とは違って、それは怖くもないし、痛くも痒くもない。形や肌触りは変わっても、なくならないと知っているから。それが悲しいとも辛いとも思わない。そう思えるようになった自分は、成長したのか後退したのかも分からないけれど。
そんな自分を昔の自分よりも好きだと言える。それだけは分かっている。それだけでいいやと思うのです。


東京は秋の匂いのする夜です。もう少ししたら、ご近所の垣根の金木犀が香るかしら。