my trivial daily life

観劇備忘録のようなもの

緋色の記憶

緋色の記憶 (文春文庫)

緋色の記憶 (文春文庫)

読了。さすがクック。なんか壊滅的に切なくなる。


封じ込めたのは少年の記憶。それは熾烈な焦燥と自由への憧憬とを伴った記憶。それは緋色のカーテンの向こうの美しい人。それは秘めた情熱。それは日常に感じる閉塞感の中で、ただ生きたいと願った渇望。老いてなお胸に抱く禁忌の記憶。

原題は「The Chatham School Affair」 チャタム校事件、である。これに「緋色の記憶」という邦題を付けたのは名訳だと思う。鴻巣友季子氏の叙情的な美しい翻訳も素晴らしいと思った。

あらすじは敢えて秘すが、途方もなく切なく美しい悲劇だった。カタルシスはない。この物語に、ミステリーらしきカタルシスを求めるのは間違っている。これは重厚な叙情溢れる文学作品であり、ありふれた地味な事件の記録であり、同時に凄絶な悲劇でもある。そしてやはり紛う事なきミステリーである。

読み終えて何度も疑問が胸に浮かぶ。ひたすら切ない。
人を愛することは罪なのだろうか?
よしんばそれが罪であったとして、人生をかけた贖罪を求める必要があるのだろうか?
たとえばそれをしたとして、心は死ぬのだろうか、完全に?

そんなことは誰も教えてくれなかったし、教わるものでもないのだろう。生涯をかけて自らの胸に問いかけ、解いていく答えなのかもしれない。
でも、どうしてこれほど周囲の人が傷つき、これほどの代償を払わねばならなかったのだ、と、どうして誰もが過去からの離脱を試みなかったのだろうと、やるせなくなる。空を飛ぶ鳥のように軽やかに生きていくことはできないことなど重々承知している。けれども、望んで戒められる必要などないはずだ。だれもが癒えぬ傷を伴侶に生きて行かねばならないのだとしても、過ちを正し、より幸福を目指す道があったはずだと思いたい。心は殺せはしない。どう足掻いても。何処へ逃げても。
喪ったものは取り戻せはしない。けれども、芽吹いてくる幸福さえ摘みとる不毛の地で枷がれて生きるには、誰もがあまりにも善良なのだ。そこにあるのは罪ではなく、ただ過ちだったのだから。
けれども投擲された過ちは波紋となり、ゆっくりと広がっていく。手の施しようがないほどに。


クックの独特な筆致で、遡られる記憶の糸は、人の普遍的な記憶と絡み合うほどに巧みで、惹きつけられる。クックほど記憶のメカニズムを熟知している語り部は居ないのではないか、と思う。そして前回と同じように改めて思う。事件に派手さも特異さも必要ないのだと。人の心そのものがミステリーなのだから。相容れない心がぶつかる、そのことだけで事件なのだから。

そして、悲劇を描いてなおクックの作品は「誰も悪くないんだよ」と言っているように聞こえる。やるせない思いを抱きながらも、諦観ではなく寛容を感じるのだ。緩やかな日常の中で穏やかにやってくる赦しを。
それは悲しい人が持つ優しさに似ている。強い人が決して持ちえない、傷を受け入れる温かさなのだと思う。



読み終えて尚思う。
人が己を捨てて他者を愛する、そんな心こそが人の持つもっとも尊いものであると。